1928年 創部

「紫匂う比叡のみ山」 京都工芸繊維大学工芸学部七十年史 1972年刊 から抜粋
 
ラグビー部

 ラグビー部は昭和三年に設立された。その前年昭和二年には日本ラグビー協会が創立され、勇敢な競技内容と紳士的なマナーから「男のスポーツ」として日本でも次第にラグビー熱が高潮していった。
草創期 緑なすクローバーの敷きつめた校庭で、比叡に向っては愛宕を負い、愛宕に向っては比叡に背きつつ、千変万化の楕円球を追い、暗くなるまで部員の躍動する姿が見られた。練習は何ら強制力も加えず、部員が自発的に黙々と練習をすることをもってラグビー部の誇りとした。
 以来、京都リーグに加盟して対外試合も数多く行なわれ、また、三高との定期戦も始まって若人の血をわかせた。
 
昭和十年 秋色の深まった九月二十一日、対同志社専門との試合が行なわれた。この日は雨中の泥戦にてボールが 手につかず、十七対0で敗退した。京高工メンバー FWー浜田、斉藤、加藤、矢上、藤井、小田、東、桜井、HB—千原、高橋、TB—吉岡、辰己、河合、安達、FB—古谷。
 ついで九月二十三日には京都薬専と対戦、終始敵を圧倒し、二十六対0で軽く一蹴し意気大いにあがった。京高工 メンバー FWー河合、斉藤、浜田、佐野、水上、加藤、東、桜井、HBー千原、高橋、TBー安達、西川、村尾、吉岡、FB—古谷。
 十月十三日は全国に名だたる京都帝大と対戦、六十九対0と大敗は喫したが、学ぶところ大なるものがあった。京 高工メンバー FWー古谷、斉藤、加藤、矢上、水上、吉田、東、浜田、HBー千原、高橋、TBー安達、河合、辰己、西川、FBー村尾。
 十月十九日には京一中と試合を行ない、実力の差を見せつけて二十九対六と完勝した。
十一月九日には洛南の雄龍谷大学と対戦。この日好調の高工芸軍は全く敵を寄せつけず、二十五対0で勝利を飾った。 京高工メンバー FWー加藤、斉藤、桃井、水上、藤井、小田、東、村尾、HBー河合、高橋、TBー吉岡、辰己、西川、安達、FB—古谷。
 十一月十四日は待望の対三高定期戦。敵は我が国ラグビー界草分けの古い伝統を誇り、高専ラグビー界に君臨する王者。京高工軍大いに奮闘し、前半一トライ先取されるもすぐ一ゴールを奪って五対三とリードし、後半、二十分あ たりまで京高工軍守備陣よく粘って敵の攻撃を食い止め、天下の三高をして顔色なからしめたが、敵の猛反撃の前に遂に二十対五で呑舟の大魚を逸した。京高工メンバー FWー佐野、斉藤、水上、桃井、河瀬、小田、東、浜田、HBー千原、高橋、TBー吉岡、辰己、河合、安達、FBー古谷。
 
 この頃、0Bから成る済美ラガークラブが創立され、力強い後援を受けることとなった。
昭和十三年 新緑薫る五月十五日、西部ラグビー蹴球協会京都支部主催第八回セブン・ア・サイド大会が同志社グラウンドで開催された。この日、空に一片の雲なき五月晴れでまるで真夏を思わしめる陽ざしであった。大学高専の部には十四チームが参加、京高工からはA、B二チームが出場した。チームは第一回戦に同大予科Bと対戦、健闘空しく後半酒井のトライ(ゴール)のみにとどまり、二十三対五で敗退した。Aチームは第一回戦に同志社高商Aと対戦、二十対三とワンサイドに降し、第二回戦は龍大棄権し、準決勝に進んだ。敵は前年度高専大会の覇者同大予科A。前半は一進一退のまま両軍得点できず、勝負は後半に持ち越された。後半開始直後主将山内ブラインドを衝き、田中からのリターンをうけて左中間にトライ、大岡のゴールなって五点をリード。その後は味村の活躍などで敵の反撃を三点に押え、待望の決勝戦へと駒を進めた。敵は京大B、同志専、同大Aを連破し、関西の覇者をもって任ずる京大A、京高工軍はただ玉砕戦法あるのみ。前半、最初よく押し続け、山内が先制のトライ。敵もさるもの、すぐさま一ゴールをあげて逆転、後半、京高工軍FWの活躍でまたも山内がトライして逆転したがつかの間、敵に六十ヤードの独走を許して十対六とリードを許し、必死に食い下る京高工軍はタイムアップ直前、センターライン付近で大岡が敵のパスをインターセプト、快走また快走ボスト真下にトライ、自らゴールして劇的な逆転優勝を遂げた。夕陽に映える比叡の御山は感涙にかすみ、校歌は天地も轟けとばかり響き渡った。京高工メンバー(A)FWー味村、北岡、古川、HB—倉光(田中)、TB—山内、大岡、中瀕。(B)FW—山田、小川、戎、HB—西村、TB—加納 川、酒井、沢田。
 このほか対三高戦では大熱戦を演じ、十九対十六の一トライの差で辛勝。また、高専大会京都ローカルの覇権をかけた同志社高商との試合には、負傷者続出のためべストメンバーを組めず、二十六対十三で涙をのんだ。
昭和十五年 多くの卒業生を校門から送ったが、陽春四月に気鋭の新人多数を迎え陣容を整えて練習が開始された。五月五日、七人制ラグビー蹴球大会が京大グラウンドで行なわれ、二度目の栄冠をめざして勇躍高専の部に出場した。第一回戦は同高商Aと対戦して二十一対五と圧勝、つづく二回戦も同大予科Aを十対六で破り決勝に進出した。必勝の気構えで臨んだ同高商Bとの決勝戦では、京高工軍選手オーバーワークのためか精彩を欠き、三十五対0と思わざる惨敗を喫し涙をのんだ。
 春の最大のゲーム対三高戦は五月十八日、本校グラウンドで行なわれた。この試合、京高工軍の闘志は満々たるものがあり、午後二時京高工キックオフで試合開始。前半中頃まで一進一退の攻防が続いたが、十五分、敵陣二十五ヤードでルーズからの球をTBにパス、味村よくフォローして中央にトライ、ゴール成って五点を先取した。その後我が軍選手負傷の間に敵一トライを返し前半終了。後半、十分、ルーズからの球が酒井、大岡と渡り、大岡中央にトライ、ゴールも成って再び敵を突き離した。十五分には敵も一ゴールをあげて肉迫してきたが、ついにそのままタイム アップ。十対八で強敵三高に勝を制した。京高エメンバーFWー田熊、今坂、松田、平山、沢田、味村、山田、栗 田、HB—永田、漳本、TB—岡部、大岡、神部、河合、FB—酒井。  九月二十一日には同志社専門と対戦、後半二十分頃までは十五対九とリードしていたが、選手の負傷のため惜しくも惜敗した。
 
戦後は、昭和二十年秋に済美会が再建され、ラグビー部も復活した。昭和二十一年、秋のスポーツシーズンに先駆けて、九月、国民体育大会出場選抜試合が行なわれた。十五日の第一回戦で本校は三高と対戦。前半六対三とリードしていたが、後半同点に追いつかれ九対九の引分けとなり、判定の結果涙をのんで勝を譲った。
 十月となり、一日に対京農専戦が行なわれ二十八対0勝。六日対京師戦は十五対0と完勝。ついで十二日には龍大と対戦、体力に勝る敵を物ともせず十一対三で一蹴。二十二日、同志社工専と雨中戦を展開これまた十二対0と完封した。二十六日には強敵医大と対戦、スクラム戦では優勢に試合を進めたが、巧みに虚をっかれ十五対六で惜敗した。
 昭和二十一年度部員 井況光雄、境良一、水原完、内田茂男、加藤虎男、平井明、藤原彰、高須寿一、高橋金四郎、高田耕三郎、玉木正信、亀村真太郎、中川良三郎、野田札三、南川昭雄、物部芳男、橫田幸雄、寺田昭和、長谷川庄七、鋒山昭、藤原隆正、村上弘、森裕、宮崎重春、島川武治、竹盛重治郎、中川長、猪飼淳男、湯浅浩典。
 


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