1949年(S24年)合併まで、高等工芸 - 繊維専門学校は別の学校で それぞれ活動していました。
京都工芸繊維大学繊維学部 八十八周年記念誌 1987年刊 から抜粋
復興期のラグビー部
新庄 正(昭25繊農卒)
太平洋戦争の終った翌年、昭和21年秋頃に、ラグビー部を復興しようと言う話が当時図南寮階下の住人、藤田重紀(C23卒)(現姓、秋田)からありましたが、当時は大変な食糧難時代でもあり、仲々すっと部員が集まる状況ではありませんでした。
また、ラグビー部そのものが戦中、戦前にあったかどうか確たるものもなく、同好会的存在は、橋本善治(W22卒)さんあたりがランパス程度の事をやっておられた様に記憶していましたので、むしろ創部と言った方が適当かとも思います。
まあ折角の事でもあり、敗戦の虚脱感から立上るのもよいと、寮生、通学生にも話しかけ、村上博昭(W24卒)も加わり、美和先生を部長にお願いして何とか17~18名の部員を集める事に漕ぎつけて、チームの編成も出来上りました。
当時用具等も仲々入手し難い時代でしたが、多くの方々の協力を得て、やっと練習出来る様になりましたのが昭和22年のシーズン前でした。従って22年度は公式試合は僅かしか行われなかった様に思います。また、22年に真継尚雄(F25卒)も入部し、当時彼の兄が第三高等学校でラグビー部にいたので、時折コーチ格で来てくれる様になり、徐々に対外試合も出来る様になりました。
創部当時の部員には旧軍関係、中学時代の経験者も半数程度おり、比較的短期間でチーム力がついた様に思います。
22年度は、三高グランドで三高との練習試合も行い、その他京都農専、京都師範戦程度で終りました。翌23年は、夏合宿も行い、全国高専大会地区予選にも出場し、23年12月初旬同志社岩倉グランドで対同志社高商戦を行い、雨中の“ドロンコ戦”でノーサイド寸前迄はリードしたものの、逆転トライをあげられ、惜敗無念の涙を呑んだものです。ス コアは11-12で、結局同志社高商が地区代表で全国大会に進んだ年でした。
23年のシーズンは、京福電鉄、東レ滋賀、京都農専、京都工専、甲南高校、龍谷大等と 対戦し、勝率は6割程度だったと記憶しております。
翌24年度は工専との合併チームとなり、練習も衣笠と松ケ崎とで交互に行う様になり、 部員数も増えました。この年行われた第一回の京都単科大学戦は10日間で3試合の強行日 程でしたが、12月11日の決勝戦で、龍谷大を破り初優勝を飾る事が出来ました。
(関西協会京都支部主催、京都新聞社後援)
1回戦 京都薬大 20-9
2回戦 西京大(府大) 16-9
決勝戦 龍谷大 30-0(前11-0、後19-0)
以上のスコアで優勝カップを手にする事が出来たのは、思い出に残るものです。使用グランドは、現在の繊維学部所在地である松ヶ崎でした。
苦しみに負ない敢斗精神、勝敗にこだわらず最後までベストを尽くす努力、自分に与えられた事を全うする責任感、ゲームに対するフェアプレー、チームメイトとの連帯感等、一個の楕円体のボールを中心に行われるラグビーの魅力もさる事ながら近代ラグビーの発展は、当時は想像されなかった程目覚ましいものでありますが、何しろ約40年近い歳月を経た今日、記録もとぼしく独断と偏見によって駄文を呈し、その責を一応果したく存じます。工繊大ラグビー部の発展を祈ります。 (文中敬称略)
単科五大学(決勝)前の合併チーム 1949年(S24)12月11日
1949年・京都工芸繊維大学設立
1955(S30)年頃
1988(S63)年
後列:神原(工化3) 城地(蚕糸4) 金(短写真2) 光橋(電子4) 中山(意匠3) 岩本(蚕糸4) 松本(工化2) 岸(生産2) 小林(工化2) 下村(工化3) 斉藤(短2) 篠原(?1)
中列(中腰):吉用(建築3) 清本(電子4) 藤井(工化4) 富田(住環境4) 岡平(色染3) 川西(生産2) 大久保(建築1)
前列:白井(工化?2) 岩崎(生産4) 葛西(生産3) 小畠(OB) 吉田哲也先生(体育教官) 藤本(生産3) 錦織(工化3) 白坂(住環境4)
昭和63年京都地区対抗大会(於京都府大) セカンドジャージ(黒)着用